Global Eco-Science School 世界につながる 科学する心、表現する力

Otsuma Ranzan Junior and Senior High School

令和2年度1学期 終業式

7月31日(金)、令和2年度1学期の終業式を行いました。
今回はコロナ禍を考慮し、ライブ配信による終業式を実施しました。

昨年の1学期終業式も、猛暑による暑さを配慮した上で(体育館で実施せずに)ライブ配信での終業式を行っており、2年続けての校内ライブ配信による終業式となりました。

生徒たちは各教室で、学校長の話(下記)や、生徒指導部、進路指導部の先生方の話を聞きました。

その後、高3生の古川さんによるスペイン留学報告(プレゼンテーション)、令和2年度大妻祭実行委員会による「大妻祭」(※)についての発表がありました。

※今年度の大妻祭(文化祭)は、11月に開催を予定しております。開催形式や内容等を変更しての開催となりますので、よろしくお願いいたします。



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2020年7月31日
大妻嵐山中学校・高等学校
令和2年度1学期終業式
校長講話より

 

新型コロナウィルス感染防止のために2ヶ月間の臨時休校を余儀なくされた1学期でした。その間、多くの学校行事を残念ながら中止せざるを得ませんでした。また、初めての遠隔授業、6月からの分散登校という、皆さんにとってもストレスの多い1学期であったと思います。

こうした多難な時期で、私は、皆さんの心の健康が一番心配でした。感染防止上、家庭に2ヶ月以上とどまらざるをえず、かつ友達との交流もできない状態で、学校が再開できたとしても、皆さんが全員元気な顔で登校してくれるのか、その点がとても気がかりでした。学校再開以降、毎朝、生徒玄関に立ったことも、こうした心配の表れでした。

一方で、全てに慌ただしかったこの1学期、皆さんの学力がしっかりと定着しているかということもとても心配でした。

一昨日、会議を開き皆さんの生活状況・成績状況を全先生方と話し合いました。その席上、担任や学年主任の先生方から、皆さんが、この1学期しっかりと生活し勉強の成果を上げてきたという報告を受けました。とてもうれしいことでしたし、本当に皆さんを誇らしく思いました。

本日は、1学期終業式の講話として、佐野洋子さんの描かれた絵本『百万回生きたねこ』を題材に話をします。この本は、40年以上前に刊行されました。多くの生徒がこの絵本を読んだことがあるのではないでしょうか。私も30年くらい前に自分の娘にせがまれて、何度も読まされた懐かしい絵本の一つです。話に入る前に、簡単なあらすじを紹介します。

百万回も死んで、百万回も生きたネコがいました。立派なトラネコでした。百万人の人が、そのネコをかわいがり、百万人の人が、そのネコが死んだ時に泣きました。でもネコは一回も泣きませんでした。最後に、ネコは誰の飼いネコでもなく、野良ネコになりました。ネコは初めて自分のネコになりました。百万回生きたネコにとって、自分は一番えらく、他のネコが自分の機嫌をとったりすることは当然でした。ある日、百万回生きたネコに見向きもしない、白い美しいネコが現れます。「おれは百万回死んだんだぜ!君はまだ一回も生き終わっていないんだろ。」そう自慢しましたが、白いネコは「そう」と答えるだけでした。何度もむなしい自慢話をしましたが、白いネコは振り向いてくれません。ある日、彼は「そばにいてもいいかい」と尋ねます。白いネコは「ええ」と答え、二匹は一緒に暮らすようになりました。二匹のネコの間には多くの子ネコが生まれ、二匹は幸せに過ごします。彼はもう二度と自慢話をしなくなりました。やがて、白いネコは年老いて死にます。百万回生きたネコもその後を追うように静かに死んでいきます。そして、トラネコはもうけっして生き返りませんでした。

この本を読んで、またはこの話を聞いて皆さんは何を感じましたか。それぞれに様々な感想があることと思います。今日は、ネコはなぜ百万回生き返ったのか、そして最後の一回はなぜ生き返らなかったのか、また作者はこの絵本を通して何が言いたかったのか、私の考えたことを話したいと思います。

最初の疑問は、「なぜ百万回生き返ったのか、そして最後はなぜ生き返らなかったのか」です。

ネコは百万回も生きてきたのに、その中で一度として自ら主体的に生ききっていなかったように私は思います。たくさんの飼い主に飼われましたが、その全ては飼い主から与えられた生であって、自分の生を生ききったわけではありませんでした。私は、ネコは自分の生を満足に生ききることができなかったために、未練が残って何度も生き返ったのだと思います。野良ネコになって、ネコは初めて自分の生を手に入れます。そして真に主体的に生きることができました。また、その証しとして愛する対象を自ら選び幸福な生活をする事ができました。しかも、それは百万回という無限大に近い生の中で起こった空しい繰り返しではありません、たった一回の生の中で輝ききったものでした。そのため、ネコは自分の生に満足して、生き返ることがなかったのだと思います。

次に作者はこの絵本で何を言いたかったのでしょうか?

私は作者が私たちに、「毎日を無為に過ごしている人は、百万回生きたネコの百万回の生と同じではないか。」と問いかけているような気がします。そして、自分の生はかけがえのないただ一つの生であることを自覚し、だからこそ、その生をよりよく生きるために努力を続け、主体的に生きることが必要なのだと訴えているように思えます。重ねて言えば、「あなたにとって、現在自分が生きている『生』は、百万回生きたネコの最後の一回の生のように充実していますか」と、作者が問いかけているような気がします。

皆さんも、図書館でこの絵本を見つけたら、是非一度目を通して見て下さい。そしてさまざまなことを感じて、自分の生き方の参考にしてもらえるといいなと思います。

話は少し変わります。

皆さんは、「トラネコのように自分の生を主体的に生きる」とはどういうことだと思いますか?

言葉で言うことは簡単ですが、いざ「主体的に生きよう」と思っても、具体的にどのように生きれば良いのか悩みます。その答えになるかどうかわかりませんが、少なくとも参考になる一つの詩を皆さんに紹介します。作者は、横浜に住む三重の障害を抱える、日木 流奈(ひき るな)君です。重い脳障害を患い歩行はできません。手も動かせません。発声もできません。強度の近眼のため、専用の文字盤を指さしてコミュニケーションをとるしかありません。そんな重い症状を抱え日々生活している方です。その方が作った「ボクが戦ってきたのはだれだろう」という詩を皆さんに紹介します。

「ボクが戦ってきたのはだれだろう」日木 流奈

ボクが戦ってきたのはだれだろう
他人に嫉妬したり
比較して優劣を競ったり
外に評価を求めたり
絶対的価値は自分の中にあるというのに
ボクは相対的なものばかり求めていた

戦う相手を外に求めていた間は
ボクの進歩は止まっていた
挑む相手を自分の中に見つけた時
ボクは永遠という時の中で
天に向かって歩むことを許されたのだ

皆さん、この詩を聞いて、どんな感想を持ちましたか?

人は、他人の目や評価、他人との比較を気にして自分をがんじがらめに縛り、自分を見失ってしまうことがたびたびあります。私も含め皆さんも例外ではないと思います。でも、流奈君は、「自分を縛っている縄がほどけた時」、言い換えれば、他人の目や評価、他人との比較を一切捨て去った時、人は自分の生を主体的に生きることができるようになると教えてくれています。

高校3年生は来年の大学受験を前にして、勉強がはかどらず焦りを感じている生徒がたくさんいるのではないでしょうか?中学生・高校1・2年生は、部活動や学校行事と勉強との両立ができず、悩んでいる生徒も多いことと思います。そうした「焦り」や「悩み」は、すべて「戦う相手を外に求めている」からではないでしょうか?

進学を目指す皆さんは、「いける学校」に行くのではありません。皆さんは、「行きたい学校」に、更には「行きたい学校」から「自分を磨き、活かせる学校」を目指し、将来、何らかの形で社会に貢献する人材にならなければいけないのです。

そして、「そのために何をすべきか?」、それは、「挑む相手を自分の中に見つける」ことです。自己の目標をしっかりと持ち、「遊びたい」「休みたい」といった甘え心を捨て、自分を厳しく律し、自分のできることを着実にこなし、自分の持てる力を地道に少しずつ伸ばすことしかありません。

夏季休業が始まります。繰り返しますが、皆さん「挑む相手」「戦う相手」を自分の中に見つけてください。そして自分の力を信じて、甘え心を捨て、自己を律し、「今できる」、または「今すべき」ことを、焦らずに一歩ずつ着実にこなしていってください。

皆さんが、この夏休みを、百万回生きたねこの最後の生のように過ごす事ができるように期待しています。

出典:佐野洋子「100万回生きたねこ」(講談社・1997年)